トミカワコラムその1:絵画の話1~東山魁夷~

お疲れ様です!富川です!

 

春休みにアメリカを一人旅してきた話をブログにしようとして始めた当ブログですが、、、

書き始めたら大作を書こうとしちゃうという悪い癖が発動してしまい、半分放置の状態になっております。

(実はこのブログが2つ目のブログなのですが、1つ目の方も同じ理由でずっと放置しております…)

 

ここで、新コーナー「トミカワコラム」というものを新設して、1000字という字数制限を設けつつ更新頻度を上げよう!みたいなことを始めることといたしました。

皆さん何卒よろしくお願いいたします!

 

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私・富川という人間は、一人の社会人として生活を成立させつつ、エレキギターという媒体で音楽表現をすることで芸術活動を行っている。

放置しまくっている大作「音楽探求のためだけにアメリカを一人旅した話」シリーズの出来事があってアメリカから帰国してからというもの、私・富川は”プロ”という概念を一旦放置して、完全に”アーティスト”であることを重視して音楽に関わるよう決心したのだった。

 

そう決意するきっかけとなった大きな原体験の一つに、東山魁夷の絵画がある。

 

東山魁夷との出会い

はっきりとは時期を覚えていないが、中学生の頃である。

地元・宇都宮の美術館で「東山魁夷展」なるものが開催されるとのことで、親に半分引きずられるような形で見に行ったのだった。

それまで自分は、美術館を「四角くてフカフカした黒い椅子に腰かけて、妙にノンビリとやって来る親を待つ退屈な場所」だと認識していた。

今回も、ヒガシヤマカイイとかいうよう分からん画家の絵を妙にノンビリと見る親に付き合うしかないのか…と思いながら、後部座席に腰かけていたのだ。

 

しかし、東山魁夷の絵と対面するや否や、絵に釘付けになったのだった。

逆に親が「まだ?」みたいな顔で自分を見ており、これまでとは完全に立場が逆転していたのだった。

 

吸い込まれるように、その場から一歩も動けなくなる感覚。

自分とその絵の間に漂う時間だけが止まって感じる感覚。

 

今思えば、”アート”を感じた初めての体験だった。

東山魁夷の代表作「緑響く」

 

東山魁夷の絵画と理想のギタリスト像

東山魁夷の絵画は、「抽象的表現であるが故に美しい」という印象を受ける。

ピクセル的にそれ以上細かく描写してしまっては、せっかくの美しさが台無しになるのだ。

 

ピクセル的な細かさは、ギターでいう「速弾き」や「テクニック」、ひいては「上手さ」という言葉に形容されるものだと思う。

確かにレンブラントのように、どこを拡大しても筆で描いたとは思えない繊細なタッチを特徴とする名画家は存在するし、その技術は時代を超えて脱帽するに値するものである。

だが、自分はポール・ギルバートやイングヴェイ、ガスリー・ゴーヴァンに代表される、速弾きやテクニック的な上手さを兼ね備えている訳ではないのだ。

しかし、いや、だからこそ、東山魁夷の絵のように「抽象的表現ゆえの持ち味」を出すことで、中学生時代の自分のように”アート”を感じてもらえるようなギタリストでいたいと思うのだ。

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